開発チエ
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KAIHOTSU Chie/開発チエ
アートのお作法

慶應義塾大学卒業時より「美術手帖」「STUDIO VOICE」「SALE 2」などに美術批評を執筆。批評家生活10年経過した後、筆を折り帰郷。犬2匹と実家でのんびり生活中。

月別アーカイブ: 4月 2013

アート研究は血も涙も忘れるべきって話(その1?)

こちらヴァン・ゴッホの1048年の作品、「悲しみ」。身重の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク。結婚さえ考えていたのですが、離別。

この絵を見て、悲しみや絶望を感じましたか?

「なんという絶望感!」とか「ゴッホ自身の心理が娼婦に投影されたのか」とかマジで語っている美術史家も多いのですが、それはパトグラフィー屋さん(病理学研究者)のお仕事であって、実は美術研究者が言うと変なんです。

「ポール・ゴーギャンとともに後期印象派を発達させた」と簡単にまとめられてしまう場合もあるんですけど、この二人はやっぱり変な存在で。

「近代的自我」とか、そういう歴史的大変換が起こると、必ずその「裏側」とか「暗部」とかがセットで出てきます。日本文学だと、明治時代に「近代的自我」たることを実現した夏目漱石や森鴎外の裏側に、中原中也や太宰治が出てくる感じですね。

ゴーギャンはタヒチへの愛でその西欧における歴史的転換に反駁したのですが、ゴッホは不幸にも「潰されちゃった人」なワケで。まずそういうこと考えるのが美術史家のお仕事のひとつです。

そして、現代の美術批評は、この手の絵を見て感傷に浸ってる場合、「デザインに負けている」と考えるのが筋なんですよね。全ての絵画等の作品は、文学の如き「精神の顕現」としては扱いません。「イラストでも狂気的に深い悲哀は出せるではないか」という意味で。

現在こんな感じの絵を描く絵描きさんがたくさんいます。確かにゴッホより格段に精神的に薄っぺらいのですが、とにかく数が多い。ちょっと病的な絵描きさんも多いですが。歴史的背景は全く無視しているワケで、「わだばゴッホになる」なんでしょうかね? しかしこういうのは、十把一絡げでゴミ箱に捨てちゃって良いです。

ポップ・アート以降はアートは全てデザインに成り果てたと浅田彰氏が言ってましたが、言い得て妙。美術批評がそれに追随したわけではありませんが、昔から「感傷」とか「感情」とかを作品に見るというのは、ヘボな批評家であったワケで。

残念ながら、「ゴッホ研究のためにオランダ語を学んだ」という人は、「フランスに留学してスタンダールを研究してました♡」というのによく似ています。

コンセプチュアル・アートというのも現代美術に存在しますが、これは作品のReadingに全てがかかっている。それは哲学・思想の謎かけであり、視覚的に美しいことはほとんどありません。しかもそのReadingに用いるのは、西欧の美学の弁証法的発達をベースにしているので、日本でそれをやっている人は…変です(笑) 赤瀬川原平らのネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの挑戦というのも存在しますが、これは西洋現代美術のパクリみたいなもんでした。(うわぁ~、敵をたくさん作った!w)

 

これ見て下さい。尾形光琳の『八橋図』六曲屏風二隻、これは文句なしに「美しい!」ですね。何が美しいって、デザインなんですよ。西洋美術史や、その時代の思想的背景には全くといっていいほど関係ありません。「時代が描かせた」ってな要素は極少で。しかしこれ、「美術」ではなく「工芸」なんです。

これは村上隆の「両手をいっぱいに広げて」(2010)。デザインであることに居直って胡座かいてます。これ、西欧のコンテンポラリー・アートが、未だ「西欧的思想」をギリギリセーフで反映しているのと違って、日本美術(工芸)の歴史の上に立ってるんですよね。そこが目新しいのであったのでしょうか? 村上の世界的活躍はご存知の通りです。

ちょっと猛スピードでぶっ飛ばしたので、わかりにくいですね(笑)

やっと画像の埋め込みを覚えてうれぴい。今回はここまで。

 


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